善悪の彼岸

怒涛の欝太郎 @dtoutsu のブログです

社会を最初に感じた話

最近、いろんな社会があるなあということを思います。

 

10代の頃(下手したら、20代の頃はよくわかってなかったかもしれないけど)は社会というのは一つしかないと思っていましたが、実はたくさんあります。会社社会、学校社会、趣味のコミュニティ社会。僕が最近よくいくイベントバーエデンというところにも、常連客と常連バーテンの形成する「界隈」の社会があります。

 

僕が10代のころに初めて感じた「社会」の話をしたいと思います。

 

19歳のときに一浪して大学に入って、勉学青年ワナビーだった僕は、さて勉学に励むぞとキャンパスに足を踏み入れたわけたわけですが、そこは酒池肉林というか、新歓で酒を飲んでやらかした話や、あの子が可愛いとか、大学デビューとかそんなことばかりで浮かれる学生ばかりでした。

 

今思うと、彼らは浮かれているわけではなくて、単位をとったり就職に有利なように先輩とのつながりを作ったりすることが目的な人が多かったのかもしれませんが、夏目漱石の「こころ」を愛読していた僕は、大学とは勉学に励む場だと思っていたので(ひどく古風な人間でした)ひどくがっかりしたのを覚えています。(というのも過去の記憶をいいように改ざんしているのかもしれません、男子校の中高一貫にいてしかもスクールカーストの低位にいて、浮かれた話とは無縁だったからということかもしれません)

 

さて、勉学に励むぞと思い、一番やりたかった数学の授業にでれば高名といわれているけど何をいっているかわからない先生が念仏をとなえ、高校生のとき得意だった物理の授業にでれば教科書を読み上げるだけでつまらず、ドイツ語の授業にでれば世捨て人のような講師が大学の愚痴をいい、楽単(楽に単位がとれるといわれている授業です)の教養科目の授業にでれば教室をデートスポットと履き違えている男女にあふれておりルサンチマンがたまる、というわけで四門出遊・四面楚歌という感じでした。

 

ある日、途方に暮れてなんの興味もない陸上競技場でぼーっとしていたら(キャンパスは人にあふれて静かな場所がそこだけだった)、工事現場のアンちゃんが着ているようなツナギを着た男に声かけられました。トサカの長さを比べあう雄鶏のように、ブランドものを着ている若者があふれていたキャンパスのなかで、ワークマンで売っているような(あとで聞いたら本当にワークマンで買っていたらしい)野暮ったいツナギを着ている一風変わった男は、ヨットサークルの代表をしており、新人を募集しているとのことでした。

 

大学のサークルや部活の新人募集というのは経験した人はわかると思いますが、なんの営業スキルもない若者が、やたらめったら声をかけてくる、数撃ちゃあたる戦法で新人=部費納入者を囲い込もうとする、地獄絵図のような惨状でしたので、ぼくは辟易してすべて無視していました(本当はカクテルサークルにも少し入っていたのですが、これはぼくが勉学青年だったという過去の美化にとっては不都合な情報なので、意図的に避けます)。

 

でも、そのときこのつまらないキャンパスから離れて、湘南の海でヨットに乗る生活がなんとなくいいなと思い入会しました。今思うと魔が指したという感じですが、そのときに出会った先輩方はいまでもかなり仲良くしています。

 

そのサークルでは、金曜日の夜に湘南某所の合宿所にいき土日連泊してヨットをやるという内容で、それが真冬の12〜2月以外は毎週、そして夏は1ヶ月半の長期合宿をするというものでした。計算すると1年のうち120日は合宿していました。よく考えるとすごい数字ですね。

 

その生活をする合宿所というのは、鬱蒼とした山林(湘南と聞いていたのですが、海の近くの山でした)にありました。大河内という大家の趣味で作った小屋でした。(大河内というのは、仮名です。ぼくは山崎豊子の「白い巨塔」という小説があり、好きなのですが、そのなかに出てくる大河内教授という清廉潔白で堅物の教授のドラマ版の俳優によく似ていた)。小屋といっても、鉄筋コンクリートでできており耐震性は高そうでした。でも、よかったのは耐震性ぐらいで、風呂場とトイレが家屋の中心にあるため湿気が常にこもり、畳は半分腐り、シロアリは大黒柱の木に巣を作っている。部屋と部屋の間には意味のない20センチの段差があるという、バリアフリーならぬバリアフルな素敵な物件でした。

 

こういうとなんだけど、大河内という人間はすこしおかしかった。土地持ちではあるらしいのですがやたらと高慢。その合宿所のあった通りの家の車に、何センチ車道にはみ出しているか(はみ出していないが)と苦情のビラをはったりして煙たがられていました。皇室関係者と自称しており、のちにうちのサークルが退去するときに難癖をつけてきて菊の御紋をつけた封書をOB会に送りつけてくるような人物でした。

 

大河内の家に毎月サークルの代表と会計係が家賃を収めにいかなくてはならないと定められていました。(今思うと振込でいいと思うのですが、大河内はそれを強制していました)

 

その会計係はKくんという同期がやっていました。Kくんは、愛知かどこかの田舎の金持ちの息子らしく非常に温厚で、学校の成績もいい良いやつでした(のちに財閥系の超大手メーカーに就職してました)。ただし、度が過ぎたゲームオタクでギャンブラーで、ヒゲと髪を無精に伸ばし、いつもボロボロのポロシャツをきていました。タバコを無限に吸う様は、人生の落語者にしかみえなかったのですが、温厚な性格がつきあいやすくぼくはよく合宿所でタバコを一緒にふかしていました。

 

そのKくんは、大河内とのやりとりや、歴史だけはあるOB会との援助金の交渉などをよくしており、文句も言わずこなしていました。

 

逆に、僕はというと、めんどくさい人間関係は避けるけど、サークルの運営資金を集めるためのOBに接待するバーベキューや学園祭に出店する焼き鳥屋など、金儲け関係は血脈をあげてやっていた気がします。OBは金を運んできてくれる人としか思ってなかった。

 

大家の大河内を見かけたら挨拶をきちんとしたり、OBと会うときにはカチッとした服(それでも3着くらいしかもっていない服の一番ヨレヨレじゃないユニクロのポロシャツ)方のを着ていったりする、Kくんに僕は一度訪ねたことがあります。

 

「そんなの、適当にやればいいじゃんない(金にもならんし)」

 

Kくんはこう簡単に答えました。

 

「社会人相手だから、社会人らしくやるんだよ」

 

僕は、そのときは「ああ、Kくんも意識高く社会人とか言うようになっちゃったのか」と、ちょっとがっかりした記憶があります。

 

でも、今思うと、Kくんは「社会の流儀」というものがあり、その社会の中で生きている人間はそれぞれの流儀で生きているので、それに合わせて対応することの大切さを肌感覚で理解していたのではないかと思います。そういえば、田舎の古い家で生まれたKくんは、盆と正月にはかかさず地元の親戚まわりをしていました(僕は古いねとからかっていましたが)。

 

ぼくも、最近になってサラリーマンもそれなりにやり、会社を起こしたり、いろいろなコミュニティや勉強会に顔を出していると、その「社会」独特の流儀に合わせている自分に気づくときがあります。

 

それは、言葉を尽くして時間を費やして、相手のことを理解するということとは真逆のことでもあります。

 

大人になると、(悲しいことに)ひとりひとりのことを理解する必要がなくなります。

むしろ、人のことを理解する時間も労力も投下する以前に、その社会に入り込むことが求められます。会社に入れば、最初に習うことは社内のメールの文体でした。それは、相手のことを理解することではなく、「その社会に属している、その社会の人だ」ということの徴(しるし)のようなものです。

 

ぼくは、人の欲望に興味があり、その人を見たいと思うのであまり「流儀」にとらわれたくはないけど、自然とそれをやっていることに気づくことが多い。

 

そういう意味で、ぼくも「社会」人になったんだなと思いました。